一 無とは何か

二 禅は

 

三 私の作品のどこに禅的行為があるのか?

 


 

 

一 無とは何か

仏教―禅において、無とは何か、ということを良く言われます。
仏教―禅においての無は、無限と考えるべきです。
また無限とは何か、となると、可能性においての無際限の意味ですが これは有限的事物を超越することです。
超越とは簡単に言うと自然的状況を超えることで、神の存在の意味です。
西洋において無とは何か、と問われると大体「何もないこと」「NOTHING」と訳されますがそれは言葉通りのもので言葉の内容の意味というものを全く考えていないことになります。

仏教―禅の見解とすれば、無は永遠不変なる世界となります。 これを説明すれば、これも神の世界であり、釈迦の悟りの世界です。
その反対が無明(むみょう)の世界です。 つまり煩悩に囚われた迷いの世界、ということになります。

最後に無とは何か、となれば、 無とは空なり
空とは何か、となれば、 釈迦の悟り、であり完全な超越の世界となります。

 

 


 

 

二 禅は

禅は仏教哲学の真髄を伝える一派である。 仏教哲学とは釈迦の悟りが元になっているわけであるが、これは仏教者の目標である。
また、仏教は釈迦の悟りの結果生れた宗教であるが、釈迦が禅を解いたのでは無い。
禅は釈迦の教えを基本に釈迦没後インドに起った。 その後7世紀に中国禅宗の中で完成されたと言われている。

禅の目指す所は、その人の意識の奥底に眠っている知恵を呼び起して 新たな力とすることにある。
禅は静寂だけを好むものではない。 その点においてキリスト教の静寂主義と分かれるところである。
つまり、キリスト教の静寂主義とは、キリスト教徒としての完成は一切の外的活動を捨てて 神に対する愛と魂の受動的観想に徹することだとある。
禅は逆に能動的であり、攻撃的な面が随所にある。それは門弟に対する教授の方法において著しい。

門弟が、「この川の底はどうなっているのでしょうか」と師にたずねれば、 師は透かさず門弟を川に投げ込んでしまう。
つまり、川の底を見たい、と言ったのは門弟である。川の底を見て確かめるのは門弟の目でなければならない。
禅は自己の本性を見抜く術だという。
人間には生来そなわっている創造心と愛の心がある。この二つの心によって今の私たちがあるといってよい。
創造心と愛の心とを自在に働かせることによって自分自身を幸福に導けるのである。
創造心と愛の心は人間にそなわっている至上の機能と言える。
世界の戦いは全てこの二つを無視し、あるいは人間の機能に無知のためにおこる現象である。

私達は自分自身の本性を見据え、奥深くにある人間の至上の機能を 探り出さなければならない。
その行為こそ無知からの開放と言える。無知の壁が取り壊されれば、そこは無限の豊穣の世界が現われる。
そして人生の意義を知ることになる。
また争いごとは単なる動物的行為の力の表現でしかないことを知る。
そしてそこに人生の無限の幸福と人生の出来事に大いなる満足感が生れ、 何一つの疑念も抱せない。

 


 

 

三 私の作品のどこに禅的行為があるのか?

あるいは、完成された作品が禅なのか?となるが、私の作品の特徴は制作過程にはっきりと禅的行為、 あるいは、それを瞑想―メディテーションと言うことができる。
例えば、豊饒の黄緑色の点を無数に打つ時、限りなく無意識状態になる。そしてその状態を長時間持続させる。
心身がきょ脱していく中での作業。そこにメディテーションと化した作業の結果作品が完成する。
黄緑の点は計画的に打たれるのではない。一点打つと次の一点の打つ場所が自然に指差される。
画面を遠くから見て検討、考えることもない。ひたすら画面と20cm-30cmの距離を持って打ち続づける。
結果的に点の流れはその作品だけにしかないものとなる。
つまり点を打つ前の画面と脳と眼を一体化するのである。すると、筆が自然に点を打って行く。
これは、完全に制作作業そのものがメディテーションと言ってよい。

音楽の丸を描く時は無心状態になる。
その時、その丸の形がきれいかどうかと言うことよりも、無心-つまり考えることもせず ただ動物のように動くだけである。
その時は思慮分別は全くない。自分の身体と思考力を放げ出すのである。 これは、心の放射と言った方が良い。
それで、どこに向かって心が放射されるかとなるが四方八方あらゆる場所にいる神に向かって放射するのである。
するとやがて神は私に描く分別と動物的に- 画面をあるがままに受けいられるようにしてくれる。
なぜ神と言うか、といえば、その時の行為を言葉で表わすには自然を超える。となる。それは神が私に描かせること、と言うことができる。
次に全く違った状況の作業である線。金の線を引いていく時。
この作業は静寂静動の中で行なわれる。息をすることも制限される。それは、一つには使っている材料のせいでもある。
その静寂静動の状態を12時間続けた。
1cmの巾の線を72m引くのであるが、同じテンポ 同じ力で26枚の画面に均等に線を引かねばならない。
この行為-作業は完全にメディテーションと言える。 12時間の中で時々水を飲むだけで一切の外的侵入を拒む。


希望。
この作品の中で表現したかったのは神の存在である。神の存在こそ私たちにとって希望そのものであり、慈悲の心である。
その神をいかに表現するべきかがテーマであった。
この画面に何重にも金箔を貼っていって、ふと頭の中をよぎったのは、神はいつも我々を見ている そして啓示を与えている。
という言葉と 神は光と共に という言葉だったが、後の光というのが私の頭の中から離れなかった。
そこで私は 神は光の速さで私達の前に現われ光の速さで去っていく。というふうに解釈した。あるいはきっとそうに違いない、と考えた。
一体私はその言葉をどのように画面に反映すれば良いのかが大きな課題となった。
そこで思ったのが虚心坦懐。
画面になんのこだわりももたず、平常心で画面を見ること、そして金箔という一つの特別な画面とも思わず、平気でそれにキズを付けること、壊してしまうことだった。
しかし、金でガッチリ構成された画面を壊すのは容易なことではなかった。それは、自己 ―つまり自分自身の心を破壊することでもあった。
長い時間の躊躇があった。あるいは画面との沈黙と言った方がいいかもしれない。
やがて沈黙は読経(般若心経)することによって少しづつ破られていった。長い時間の読経はやがて集中力を高めていった。
集中力は心身の放射である。そこには計画的目論見も画面との対峙からくる希望的観測も全て排除された。
声は時間と共に高くなり自己の放射が極限となった時、画面から20cmの前に立っていた。
画面を見ることなく、一気呵成におよそ何秒かの勝負だった。
おそらく神はこのような速さで来る。 そう信じた。体力の消耗と共に作業は終った。神もまたそこから去っていった。
去った神は私の画面のなかにまぎれもなく生き続けることであろうと確信した。